……日の暮も秋のように涼しかった。僕等は晩飯をすませたのち、この町に帰省中のHと言う友だちやNさんと言う宿の若主人ともう一度浜へ出かけて行った。それは何も四人とも一しょに散歩をするために出かけたのではなかった。HはS村の伯父おじを尋ねに、Nさんはまた同じ村の籠屋かごや庭鳥にわとりを伏せる籠を註文ちゅうもんしにそれぞれ足を運んでいたのだった。

浜伝はまづたいにS村へ出るみちは高い砂山のすそをまわり、ちょうど海水浴区域とは反対の方角に向っていた。海は勿論砂山に隠れ、浪の音もかすかにしか聞えなかった。しかしまばらにえ伸びた草は何か黒いに出ながら、絶えず潮風しおかぜにそよいでいた。

「このへんに生えている草は弘法麦こうぼうむぎじゃないね。――Nさん、これば何と言うの?」

僕は足もとの草をむしり、甚平じんべい一つになったNさんに渡した。

「さあ、たでじゃなし、――何と言いますかね。Hさんは知っているでしょう。わたしなぞとは違って土地っ子ですから。」

僕等もNさんの東京からむこに来たことは耳にしていた。のみならず家附いえつきの細君は去年の夏とかに男をこしらえて家出したことも耳にしていた。

さかなのこともHさんはわたしよりはずっとくわしいんです。」

「へええ、Hはそんなに学者かね。僕はまた知っているのは剣術ばかりかと思っていた。」

HはMにこう言われても、弓の折れの杖を引きずったまま、ただにやにや笑っていた。

「Mさん、あなたも何かやるでしょう?」

「僕? 僕はまあ泳ぎだけですね。」

Nさんはバットに火をつけたのち、去年水泳中に虎魚おこぜされた東京の株屋の話をした。その株屋は誰が何と言っても、いや、虎魚おこぜなどの刺すわけはない、確かにあれは海蛇うみへびだと強情を張っていたとか言うことだった。

「海蛇なんてほんとうにいるの?」

しかしその問に答えたのはたった一人ひとり海水帽をかぶった、背の高いHだった。

「海蛇か? 海蛇はほんとうにこの海にもいるさ。」

「今頃もか?」

「何、滅多めったにゃいないんだ。」

僕等は四人とも笑い出した。そこへ向うからながらみ取りが二人ふたり、(ながらみと言うのはにしの一種である。)魚籃びくをぶらげて歩いて来た。彼等は二人とも赤褌あかふんどしをしめた、筋骨きんこつたくましい男だった。が、しおに濡れ光った姿はもの哀れと言うよりも見すぼらしかった。Nさんは彼等とすれ違う時、ちょっと彼等の挨拶あいさつに答え、「風呂ふろにおで」と声をかけたりした。

「ああ言う商売もやり切れないな。」

僕は何か僕自身もながらみ取りになり兼ねない気がした。

「ええ、全くやり切れませんよ。何しろ沖へ泳いで行っちゃ、何度も海の底へもぐるんですからね。」

「おまけにみおに流されたら、十中八九は助からないんだよ。」

Hは弓の折れの杖を振り振り、いろいろ澪の話をした。大きい澪は渚から一里半も沖へついている、――そんなことも話にまじっていた。

「そら、Hさん、ありゃいつでしたかね、ながらみ取りの幽霊ゆうれいが出るって言ったのは?」

「去年――いや、おととしの秋だ。」

「ほんとうに出たの?」

HさんはMに答える前にもう笑い声をらしていた。

「幽霊じゃなかったんです。しかし幽霊が出るって言ったのはいそっ臭い山のかげの卵塔場らんとうばでしたし、おまけにそのまたながらみ取りの死骸しがいえびだらけになってあがったもんですから、誰でも始めのうちはに受けなかったにしろ、気味悪がっていたことだけは確かなんです。そのうちに海軍の兵曹上へいそうあがりの男が宵のうちから卵塔場に張りこんでいて、とうとう幽霊を見とどけたんですがね。とっつかまえて見りゃ何のことはない。ただそのながらみ取りと夫婦約束をしていたこの町の達磨茶屋だるまぢゃやの女だったんです。それでも一時は火が燃えるの人を呼ぶ声が聞えるのって、ずいぶん大騒おおさわぎをしたもんですよ。」

「じゃ別段その女は人をおどかす気で来ていたんじゃないの?」

「ええ、ただ毎晩十二時前後にながらみ取りの墓の前へ来ちゃ、ぼんやり立っていただけなんです。」

Nさんの話はこう言う海辺うみべにいかにもふさわしい喜劇だった。が、誰も笑うものはなかった。のみならず皆なぜともなしに黙って足ばかり運んでいた。

「さあこのへんから引っ返すかな。」

僕等はMのこう言った時、いつのまにかもう風の落ちた、人気ひとけのないなぎさを歩いていた。あたりは広い砂の上にまだ千鳥ちどり足跡あしあとさえかすかに見えるほど明るかった。しかし海だけは見渡す限り、はるかにえがいた浪打ち際に一すじの水沫みなわを残したまま、一面に黒ぐろと暮れかかっていた。

「じゃ失敬。」

「さようなら。」

HやNさんに別れたのち、僕等は格別急ぎもせず、冷びえした渚を引き返した。渚には打ち寄せる浪の音のほかに時々澄み渡ったひぐらしの声も僕等の耳へ伝わって来た。それは少くとも三町は離れた松林に鳴いている蜩だった。

「おい、M!」

僕はいつかMより五六歩あとに歩いていた。

「何だ?」

「僕等ももう東京へ引き上げようか?」

「うん、引き上げるのも悪くはないな。」

それからMは気軽そうにティッペラリイの口笛を吹きはじめた。

(大正十四年八月七日)