岡の上

最初この亞米利加へ來た當座、私は暫く語學の練習をする目的で、その時滞在して居た市俄古シカゴ都會まちからはミスシツピーの河岸に沿うて凡そ百哩あまり、人口四千に満ちざる小さな田舎町に建てられたなにがしと呼ぶ大學カレツジへ辿つて行つた事がある。已に人も知つて居る通り、米國のカレツジと云へば大槪は同じ宗敎組織の私立學校で、誘惑の多い都會をば遠く離れた景色の好い田舎に建てられ、敎師は生徒と一緖に先づ理想的の純潔な宗敎生活を營んで居る。今私の辿つて行つた學校も其等の一つで、私は最初此う云ふ邊鄙へんぴな土地へ來たならば、もう日本人には會ふ事もあるまいと思つて居た。處が意外にも、私は此に不思議な煩悶の生涯を送つて居る一人の日本人に邂逅したのである。

市俄古を出てから四時間ほど。何處を見ても眼のとゞく限りは玉蜀黍たうもろこしの畠ばかり。茫々とした大平野の眞中に立つて居る小さな停車場へ着くや否や、私は汽車を下り、重い手鞄を下げながら、雞や子供が大勢遊んでゐる田舎街の一筋道を行盡して、小高い岡の上、繁つた樹木の間に在る學校を訪問れると、如何にも親切らしいとしとつた校長が、市俄古の西洋人から貰つて來た私の紹介狀をも見ぬ中に、もう極く親しい友逹同士であるかの如く顏中を皺にして笑ひながら、「好く尋ねてお出でなすつた。渡野わたのはさぞ貴下を見て喜ぶ事であらう。何しろ彼の人は私共の處へお出でになつてから、丁度三年近く、一度も日本人にはお會ひなさらないのですから………。」

私は茫然として何の事か其の意を解し兼ねて居るにも關らず、老人は猶満面に笑を浮べて、

「ミスター渡野とは日本においでの時から御存じなのですか、又は米國こちらへ御出でになつてから御交際なすつたのですか。」

校長は私が日本人である處から、此の學校に居る同國人の渡野君を尋ねて來たものとのみ早合點して了つたので。然し此の誤解は直樣無邪氣な一場の笑ひとなり、私は續いてミスター渡野なる人に紹介された。

年は三十七八でもあらう。破れぬばかりに着古した縞の背廣に、色の褪せた黑い襟飾―――華美はでな市俄古の街なぞでは見られぬ位な質素じみな風をして居たが、黑い光澤つやのある頭髮かみのけを亞米利加風に長くのばして金の鼻眼鏡を掛けた目鼻立、女にしたらばと思ふほど美しい。顏色は白いよりは少し蒼白い方で、その大きい眼の中には何處か神經過敏な事が現れて居た。

彼は校長が私に言つた言葉とは全然違つて、最初私を見ても別に嬉しいと云ふ色も見せず又意外だと驚く氣色もなく、無言で握手した後は殊更らしく天井を見て居た。う云ふ風で私の方も彼に劣らず、極く人好きの惡い無愛想な性質である處から、私は唯彼が此の學校の哲學科で東洋思想史の硏究に關する資料蒐集の手助けをして居る傍、折々聖書硏究の講義室へ出席すると云ふの外は如何なる經歷を持つて居る人物だか、一向聞き知る機會が無かつた。

然し三月程經つた或る土曜日の午後である。私が此の地へ來たのはさほど寒くはない九月の末であつたから、其の頃には深綠の海をなした玉蜀黍の畠も今は暗澹たる灰色の空の下に一望遮るものなき曠野となつて居る。

午後の四時を過ぎたのみであるが太陽は早くも見渡す地平線下に沒し去り、灰色の空の間に低く一條の力なき紅色くれなゐの光を殘すばかり。空氣は沈靜して骨々に浸渡る寒氣はしん〳〵と荒野の底から湧起つて來る。私は停車場内の郵便取扱所へ行つた歸途校舎に近い岡を上つて行くと、一株枯木の立つて居る此の岡の頂きに、悄然と立ちすくみ、云ふに云はれぬ悲痛な顏付をして、寒さに凍る荒野のはづれに消え去らんとする夕陽の影を見詰めて居る渡野君に出會つた。渡野君は私の姿を認めると唯一言、

「荒れ果てた景色ですなア。」とぢツと私の顏を見詰めた。

私は異樣な樣子に驚いて直には何とも答へられなかつた。渡野君は俯向いたが今度は獨言のやうに、

「人は墓畔ぼはんの夕暮を悲しいものだと云ふけれど、それは唯だ「死」を聯想させるばかりだが………見給へ此の景色を。荒野の夕暮は人生の悲哀生存の苦痛を思出させる………。」

其れなり無言で二人は靜に岡を下つた。彼は突然私を呼掛けて、

「一體、君は如何思つて居られる。人生の目的は快樂にあるか、或は又………。」と云ひ出したが、不意と自ら輕率な問を發した事を非常に恐れた如く銳い目で私の顏色を窺ひ、更に、「君は基督キリストけうの神を信じて居られますか。」

私は信じやうとして未だ信ずる事が出來ない。然し信ずる事の出來た曉には、如何樣どんなに幸福であらうかと答へた。すると、渡野君は聲に力を入れて、

「懷疑派ですね。よろしい〳〵。」と腕を振動かしたが、軈て靜に、「君の懷疑說は如何云ふのだね。私も無論アメリカ人見たやうな信仰は持つて居ないのだから………一つ君の說を伺はうぢや無いか。」

此處で私は、遠慮無く私の宗敎觀や人生觀なぞを語つたが、すると、其れは不思議にも彼の感想と大に一致する處があつたのでもあらう。彼は生々させた目の色に非常な内心の歡喜よろこびを現ししきりと私の才能を賞讃して呉れた。

誰に限らず未知の二人が寄合つて、幾分なりとも互に思想の一致を見出した時ほど、愉快な事は恐らくあるまい。それと同時に又此れ程相互の感情を親密にさせるものも他にはあるまい。

それからと云ふもの、私等二人は朝夕相論じ相談ずる親しい友達になつたので、問はず語りに私は渡野君の經歷も先づ大槪は知る事が出來た。彼はある資產家の一人息子であつた。七年程前に洋行して、東部の大學で學位を取り、その後は暫く此れと云つて爲す事もなく紐育ニユーヨークあたりに遊んで居つたが、或る會合の席で此の學校の校長と知己ちかづきになり、丁度學校で東洋の思想風俗なぞの硏究に關して、一人日本人が欲しいと云ふ處から、自分から望んで此の地へ來た。然し彼自身は其れ程深く東洋の學問は知つて居らぬ。辛うじて硏究の材料を蒐集する手助けをする位なもので、此地へ來た第一の目的は他でも無い、持前の懷疑思想を打破り、深い信仰の安心を得たい爲めに、殊更選んで邊鄙な田舎の宗敎生活に接近したのであるとの事。

彼は無論生活の爲めに職業を求むる必要がないとは云ふものゝ、此くも眞面目しんめんもくな煩悶の爲めに、已に學業をへた後も、猶ほ故郷へは歸らず、獨り旅の空に日を送つてゐるのかと思つた時には、私は心の底から非常な尊敬の念を生ぜずには居られなかつた。

私はこの畏敬すべき友と寒い〳〵米國の一冬を甚だ平和に愉快に送過して、やがて四月といふ昇天祭イースターの其の日から、折々暖い日光に接するやうになり、程もなく待ち焦れた五月の訪問おとづれを迎へる時となつた。冬の寒氣さむさの忍び難いだけに、此の五月の空の如何に樂しいか。昨日までは全く見るに堪へぬ程寂しい不愉快な色をした平野の面も忽ち變じて一望限りなき若草の海となるので、其の柔かな綠の色を麗かな靑空の下に眺め見渡す心地は何に譬へやうか。

私は林檎の花咲く果樹園を彷徨さまよふやら、牧場に赴いて野飼の牛と共に柔かな馬肥草クローバーの上に橫臥よこたはるやら、或は小流れのほとり佇立たゝずんで、菫の花の香に醉ひながら野雲雀と共に歌ふなど、少くとも每日三哩以上を步まずには居なかつたであらう。富有な農家では每日の午後ひるすぎを待兼ねるやうにして、馬車を馳らせて野遊あそびに出て行く。女や子供の笑ひ喜ぶ聲は到る處に聞えるのであつたが、此に唯一人、彼の渡野君ばかりは此のうるはしい春の來ると共に次第々々に陰鬱になり、遂には一度として私の誘出す散步に應じた事もなく、自分の居室にのみ引籠つてしまつた。

或夜のこと私はその居室に訪問れて、無理にも想像しかねるその原因を聞きたゞし、出來るものなら幾分か慰めても見やうと思つて、その室借をしてゐる下宿屋の門口まで行つて見たが、いざとなつて見ると何となく妙に氣怯きおくれがして了つた。事實私はまだ瞭然はつきりと渡野君の人物を解釋する事が出來ない。恰も英雄偉人に對する時吾々は尊崇の念に伴うて或る畏懼ゐくの念を生ずる如く、私は今だに渡野君に對しては何となく氣味惡い感じを取除ける事が出來なかつたので、其のまゝ步みを轉じて彼方此方と春の夜を來るともなしに去年の冬初めて渡野君と話をした岡の上に來た。

その時分には瘦衰へて居た一株の枯木にも、今は雪の樣な林檎の花が咲き亂れ、云ふに云はれぬ香氣かをりの中に私の身を包んだ。柔かな草の上に佇立み四邊を眺めると、此れこそは地球の表面であるといふやうな氣のする程廣々した大平野の上に、朦朧たる大きな月が一輪。所々の水溜りは其の薄い光を受けて幽暗な空の色を映して居る。後の學校では女生徒の樂み遊ぶ音樂が聞え、近くの田舎街には家々の窓に靜な燈火ともしびの光が見える。

魔術が作出したやうな夢とも思はるゝ異郷の春の夜。

私は忽ち恍惚として自分ながら解せられぬ優しい空想に陷つて居たが、突然後から肩を叩いて、「君」と一聲。思ひ掛けない渡野君である。彼は何か用あり氣に、「今、君の處をお尋ねした。」

「私の處を………。」と私は彼が室の戶口を叩き兼ねた事は云はずに了つた。

「實は急にお話したい事がある。それで君の處へ出掛けたのですが………。」

「何です、何樣事です。」

「まア此處へ坐らうぢやありませんか………。」と彼は私よりも先に林檎の花の下に坐つたが、暫くは無言で。大方私と同じく、大平野を蔽ふ春の夜の神祕に打たれたのであらう。然し忽ち我に返つた如く、私の方に向直つて、

「私は二三日中に君とお別れするかも知れない。」

「え。何處へかお出でになるんですか。」

「もう一度紐育へ行つて見やうと思ふです。或は歐羅巴ヨーロツパへ行つて見るかも分らん………兎に角この地を去る事に決心しました。」

「何か急用で………。」

「いや、私の事だもの別に用は無い。只感ずる處があつたから………。」と云つたが力ない語調てうしであつた。

「何をお感じなすつたのです。」と質問すると彼は一寸息をついて、「それを今夜君にお話したいと思つたのです。君との交際は未だ半年になるかならないが、何となく十年もお交際したやうな心持がするのです。だから、私は萬事殘らずお話して、そしてお別れしたいと決心したのです。然し又何處かでお會ひ申すでせう。君も此れからアメリカを漫遊なさると云ふのだから。」淋しく微笑んだ後彼は靜に語り出した。

日本の大學を卒業してから間もなく私は父親に別れてその儘家產を讓受けたので、此の財力と新學士と云ふ名前とで、此後は自分の思ふ儘の方向に世を渡る事のできる頗る幸福な身分となつたのです。私の修めた學科は文學でしたから私は自分の周圍に集つて來る多くの友人の勸告する儘に一つの會を組織し、人生と社會問題の考究を目的に立派な月刊雜誌を發行する事とした。

兎に角私の名前は已に學生の時代から、折々投稿して居た雜誌新聞なぞの所說で多少一部の人には知られて居たので、今や父から讓られた資產を後盾にして堂々と世の中へ押出した景氣は先づ大したものでした。私の代表した團體は今度始めて世間へ出た若手の學士ばかりで組織されたのですが、其の機關雜誌は廣吿を出したばかりで、未だ初號を發行せぬ以前から、もう世間一二の有力な雜誌の中へ數へられて居ました。私の周圍には無論阿諛あゆを呈するともがらもあるので、此の當時私は全く自分に對する讃辭より以外には、殆ど何にも聞く事が出來ない程でした。

その時私は年齢二十七、まだ獨身でした、虛言うそか誠か、某伯爵の令孃は私の演說する樣子を見てから戀煩ひをして居るとか、或は何處とかの女學校では私の人物評論から女生徒の間に一場の紛擾ふんぜうを起した抔云ふ噂も耳にしました。否現に一二通の艶かしい手紙さへ受取つて居たのです。

で、私は兎に角自分の持つて居る或力が、異性の心情に對して、微妙な作用を爲すものだと云ふ事を自覺せずには居られなくなつた―――自覺すると同時に何とも云へぬ愉快を感じたのです。そして其の愉快は自分の主義と自分の人格が、世間から重く迎へられて居ると云ふ事を自覺した時よりも、更に深い快感であつた。何と云ふ事でせう。私は如何に自分を辯護しやうとしても致し方がない。其の一瞬間、其の一刹那に、私の情が然う感じたのですから。

私は彼樣かやうに深い愉快を感ずると、其れに續いて、直樣此の快樂を出來るだけ進ませて見たいものだと思つた。すると心の中で、「早く結婚しては不可い。男の側から世に此上の美人は無いと云ふ位な人の妻と、其れ程ではない處女むすめとを比較べて見て、何れがより﹅﹅强い空想を起させるか。男の魔力も其れと同じ事だ。」と云ふ樣な聲を聞いたのです。

私はもう此の聲の奴隷です。出來るだけ自分の姿を綺麗にして、あしたには秋波しうはの光と微笑の影に醉ひ、夕となれば燈火きらめく邊に美人の歌を聞き、何時か二三年の月日を夢のやうに送つて了ひました。

然し或日の事、私は東京の人目を避ける爲めに、或る閑静しめやかな海邊の小樓に美人三人までを連れて遊びに行つて居たが、それは丁度冬の夕暮で、午後の轉寐うたゝねから不圖眼を覺して見ると、私の最も愛して居た美人が唯一人、私の爲めに膝枕を爲せた儘、後の壁に頭をせ掛けてうと〳〵と睡つてゐるばかり、他の二人は何處へ行つたのやら、室中は薄暗く、戶外の方では寛漫だるい潮の聲が遠く聞えるばかりです。

私は其の儘再び目を閉ぢたが、考へると今頃此樣處で私が此樣有樣をして居るとは世の中に誰が知つて居やう。世の中は唯だ潔白なる論客として自分のある事を知つてゐるのみだ。さう考へ出すと私は可厭いやな切ない感じに迫められた。尤も此れは今始めて氣が付いたと云ふのでは無いのです。最初から私は此種の快樂を決して賞讃若しくは奬勵すべき善行ともしてゐませんし、又、慈善事業の廣吿のやうに公然おほびらに發表すべき性質のものともして居ません。即ち極めて祕密にすべきものとして、今日まで巧に世間の耳目を糊塗ことして居たのです。此の後とても祕密にして行く事は容易です。今の世の中に此位の祕密が保つて行けないやうでは殆ど何事も爲す事は出來ますまい。私は此點から云へば確に自ら才子と稱しても差支は無いでせう。然し私の今感じたのは若しや私が此う云ふ祕密を持たず、云はば靑天白日の身であつたら如何であらう。世間が想像する通りの淸い身の上になる事が出來たら愉快であらうか、不愉快であらうか。無論私は愉快であると決斷したです。何故ですか。祕密は一つの係累も同じ事で、云はゞ荷厄介な物ですからね。

こゝで私はいよ〳〵悔悟の時期に入る事となり、此後は斷じて俗世界の快樂には近寄るまいと決心した。同時に一日も早く獨身生活の危險を避け、自分の決心を斷行する助けともなるやうな神聖なそして賢明な妻を持たうと云ふ心を起したのです。

私は如何なる婦人を妻に選びましたらう。

それは看護婦でした。

その頃私は激烈な風邪に冒されて醫師の注意する儘に一人の看護婦を雇ひ、其の手に介抱されて居た。看護婦は其の時二十七歲の處女で、身丈せいは低い方ではなかつたが非常に瘦せてゐて容貌は何と評しませうか……兎に角醜い方では無かつたですが、然し男の心を惹く樣な愛嬌も風情も無いのです。頰の瘦せこけた顏の色は唯だ雪の樣に白いばかりで、何時も何事をか默想して居ると云ふ樣に、沈んだ大きな眼を伏目にさせて居ます。幼い時に兩親に別れ、孤兒みなしごの生涯を神に獻げて居るとの事で。

私は病中屢夜半に眼を覺ます事があつたが、其の時には必ず私は黃いランプの火影ほかげに聖書を讀んで居る彼女の姿を見ぬ事はなかつた。深け行く夜半に端然と坐つて居る眞白な彼の姿は何時も私をして云ふに云はれぬ平和と寂寞の感を起させます―――此の感情の神神しく氣高い事は地上に住む人間以上のものとしか思はれぬので。私は考へるともなく若し恁う云ふ婦人と結婚したらば私は如何なる感化を受けるであらうか。私の妻に選ぶべき婦人は他にはあるまいと思つた。で、私は病氣が全快すると直ぐ、此の事を申出したのです。

彼女は驚く心をぢつと押靜めて徐ろに辭退しました。然し私は無理にその手を取り今迄の罪惡を殘りなく懺悔して、私は神聖なる彼女の愛に因つてのみ世の快樂世の罪惡から身を遠ざけ誠の意味ある生活に入る事が出來るのだ………と云ふ事を話すと、彼女はぢつと聽入つた後、忽ち感激の淚をこぼしながら、口の中で祈禱を繰返しました。人は笑ふであらう、或は私の事を醉興とでも云ふであらう。然し私は全くその時は彼女は私の身を救ふ天の賜物であるとのみ信じたのです。

然し其れは非常な誤りでした。單に誤りならばまだしも、其れは一層私の身を不幸ならしむる原因になつた。私は彼女をば救の神として其手に賴り縋ると共に、彼女に對して満身の愛情を注がうと企てたが、然しかの暖い柔い戀愛の情は如何しても湧いて來ないのです。單に彼女に對する尊敬の念を起し得るのみで、つまり二つの精靈を一つに結付けて了ふ心地には如何してもなれなかつた。

春の日の事、私は彼女と唯だ二人、强ひて色々な談話を私の方から仕掛けながら家の庭園にはを散步した―――夢の樣な麗かな春の日です。靑空は玉の樣に輝き、櫻や桃の花は今を盛りと咲亂れ小鳥は聲を限りに歌つて居る。若い血潮の燃える時は此春ならずして何れにありませうか。私等二人は花の下の小亭あづまやに腰を掛けやうとした時、私は彼女の手を握締めその頰の上に接吻して見た。彼女は私の爲すが儘にさせました。然し彼女の眞白な頰はその色ばかりでは無い、全く雪の樣に冷く、私の唇が感じた此冷氣は强ひて喚起した滿身の熱を盡く冷して了つたやうに思はれた。彼女は大理石の彫像です。私は握つた手を放し呆れたやうに其の顏を打目戍うちまもると、彼女は私の顏を見返してにつこり﹅﹅﹅﹅と淋し氣に笑つたのです―――私は覺えずゾツとしました。何の故か自分ながら解りません。唯何と云ふ譯もなく私の心の中には云ふに云はれぬ不快な嫌惡の情がむら〳〵と湧起つたのです。

私は其の儘座を立つて獨り木立の方へ步いて行つた。彼女は別に尾いて來るでもなく矢張元の處に腰掛けて例の如く沈んだ眼で折々空を見上げて居るのでせう。軈て小聲に讃美歌を歌ふのを聞きましたが、其の讃美歌の調子が、此の瞬間には、何とも云へず不快に聞きなされた。私は實に自ら解するに苦む。讃美歌の調子と云へば私は以前放蕩の生活をして居る最中でさへ、折々星の靜な夕なぞ會堂の窓から漏れるその歌を聞く時には、如何にも人の心を休める靜な音樂として、少くとも不快な感を起した事などは無かつた。私は幾分か情無いやうな心地になつて一度に譯も分らぬ色々な事を考へながら、木立の中を過ぎて裏庭の方へ步いて行きました。

そこはかなり﹅﹅﹅廣い畠になつて居て夏の頃には胡瓜うりや豆の花なぞが美しく咲き亂れ、夕月の輝く頃など私は殊更此處を愛してゐたのですが、まだ種蒔をしたばかりの事とて、平かに耕した一面の土を見るばかり。然し何一つ遮るものが無いので大空から落ちる春の光は目も眩むばかりに明い。私は滿身に此の光を浴びて蒸される樣に暖かく、額際には薄く汗をかく程となつた。もう彼女の歌ふ讃美歌も聞えず、空中を飛過ぎる燕の聲を聞くばかり。春の日の日盛りは時として深夜よりも靜な事があります。今迄の混亂した考へも何處へか消去り、私は唯茫然として空の果にものうく動いて居る白雲を見詰めながら、此度は畠の端の勝手近い家の傍へ步を移した。

爛漫たる桃の花が目についた。すると忽ち此の桃花の間に女の姿………私は覺えず立止つた。桃の花は家の屋根を隱すほどに咲亂れた丁度その木蔭の低い肱掛窓に、女は兩肱を載せ橫顏をばひた﹅﹅と其の上に押當てゝ餘念もなく午睡をしてゐるのです。すると一面に落掛る春の日光と窓を蔽うた桃花の反映とで、女の半面は云ひ難い紅の色を呈して居る。此方から眺めると、何うしても繪としか見えません。

一月程前に家へ行儀見習ひとかで奉公に來た小間使、年は十九とやら。然し私は其樣事を考へる暇は無い。忽ち綺麗な蝶が一つ、ひら〳〵と飛んで來て、紅色を呈した女の愛らしい耳朶みゝたぶをば何かの花瓣はなびらとでも思つたかその上にとまつた。

私はもう世の中の事も自分の身の上も何も彼も忘れて居ます。無論此の瞬間には自分は此の女を愛して居るか否かと云ふ事も意識しては居ません。唯その傍へ行つて、燃えるやうな頰に觸つて見たいと、私の身中を流れて居る血が私にく命令したのでせう。私はすつと傍へ近寄らうとした。が、其の時女は不意と眼を覺すや否や驚いて四邊を見廻す途端に、私の姿を認めて、少時しばしは爲す處も知らぬやうに………次の室の方へ逃げ込んで了ひました。

實に些細つまら事件ことである。然し私の身には正しく非常な大事件です。私は此の日から自分では意識せぬ間に絶えず以前の華美はなやかな生涯を回想し始めた。私の耳には音樂や美人の囁きが聞え眼には紅裙こうくんの飜へる樣が見える。私は自分の身を救つてくれる神の化身とまで尊敬し自ら强ひて妻と選んだ彼女の事をば露ばかりも腦中には置かぬやうになつた………單に其れのみならばだ可い。段々彼女を嫌ふ程度を强めて來たのです。私は一心にこの惡心を制壓しやうと試みた。同時に彼女に對して此の精神の變化を知らすまいと非常に苦心した。然し何も彼も無駄らしかつた。彼女は何も云はず又少しも素振には現さなかつたが、彼の沈んだ伏目で旣に何も彼も知り拔いて居るらしく見えた。私は軈て彼女を恐れるやうになり、なりたけ彼女の眼から遠からうとしたです。すると如何でせう。彼女は其れをも見拔いて居ると見え、向うからも成るべく姿を見せぬやうにと、終日自分の居間に閉籠つて了つたです。私は實に何とも云へません。唯だもう泣き度いやうな心持になりました。

と云つて私は此儘に打捨てゝは置けない。一度妻と選んだからには如何しても彼女を愛さねば成らないのです。私は半分夢中で如何にかして彼女に對する嫌惡の情を取去りたいと焦せれば焦せる程、事實は增〻惡くなるばかり。遂には何となく氣が變になつたやうに思はれました。或夜私は睡眠中に不意と何か物音を聞き付けたやうに思つて、喫驚して眼をさましたが、すると何時の間にか彼女が眞白な看護婦の着物を着て、端然きちんと私の枕許に坐つて居る樣な氣がするかと思ふと、忽ち何處からともなく聖書を讀むやうな聲が聞える。其の聲の陰氣な事氣味の惡い事と云つたらお話にはなりません。私は覺えず寢床から飛起きるや否や枕許のマツチをさぐり取つて燈火を點けた。誰も居やう筈は無い。唯だもうしん〳〵﹅﹅﹅﹅とした夜です。

これから每夜のやうに陰氣な聖書の聲が聞え出して安眠する事が出來ない。一の事結婚した當時のやうにもう一度彼女と並んで寝て見たら如何であらう――恁う思返して私は然うつて見たが益〻不可い。夜が深けると共に、眼はいよ〳〵冴えて來る。私の傍に橫はつて居る彼女の身體は宛然まるで石の樣に冷たく感じられ、次第々々に私の身體の熱までが冷て行くやうで、若し今夜一晚彼女と同衾どうきんして居たら、彼の美しい花を見て愉快を覺え、暖い酒に觸れて甘きを覺える私の神經はもう二度と再び然う云ふ微妙な働きをする事が出來ないやうに次第に無感覺となつて行くが如く思はれる。私は一生懸命に掌で自分の皮膚を摩擦して多少の熱度を得たいと試みたがそれも無効であつた。私は若し此處で眼を閉ぢて眠つて了つたなら、屹度其の儘死んで行くに違ひない―――明日の朝暖い太陽が花園の花を照しても、鳥が歌ひ出しても、私はもう其れ等を見聞する事は出來まいと云ふやうな氣がして眼をつぶる事が出來ないのです。

夜の深け行くまゝに糸の樣な彼女の寐息が耳につき始めます。絕えやうとしては又續く其の呼吸につれて、彼女の肉體に宿つてゐる靈魂は、次第々々に彼女が絕えず夢みて居る天國へと夜の靜寂しづけさに乗じて昇り行くのではあるまいかと思はれ、觸るとも無く、私はそつと片手を彼女の胸の上に載せて見た。彼女は仰向けに寐て居る其の胸の上にひしと兩手を組合せ、全く少しの身動きさへしません………忽ち氷の如く冷たいものが私の手に觸つた。覺えず私は手を引込めたが漸くに手捜りして見ると、それは彼女が何時も肌身離さず持つて居る金の十字架でした。

此う云ふ風に每夜不眠の結果から身體は著しく疲勞して、辛くも晝間の轉寐に幾分かの休息を得ると云ふ有樣。此うなつては是非とも彼女の傍を遠ざかる必要が出來て來ます。彼女と同じ屋根の下に生活して居る間は到底如何なる手段も無効であると思ひ、餘儀なく私は旅行と云ふ事を思ひ付いて遂に外國行と云ふ事に決心したのです。

私は早速勉學の爲めと稱して米國へ行く事を妻に話しました。彼女は例の如く悉皆すつかり私の心中を見拔いて居ると云ふやうに、何の異議も稱へず直樣承知してくれました。私は財產の三分の一を彼女の生活費として辭對するのを無理やりに受取らせ飄然へうぜん此のアメリカへ來たのです。

その後の事は一々お話しする必要はありますまい。御存じの通り、何しろ此の米國と云ふ所は人間社會の善惡の両極端を見る事の出來る所です。人は何方どちらへなりと隨意に好む方へ行く事が出來ます。晝と云ふものなき祕密倶樂部の一室、眞赤な燈火の下で、裸美人の肩を枕に鴉片あへんの夢を見るもよし、又は浮世の榮華なぞは何處にあるかと思ふやうな田舎の宗敎生活、朝な夕な平和な牧場に響渡る寺院の鐘の音を聞くのもいゝでせう。

私は兎に角一通り米國社會の大體を見たからは此の上此の地に止まる必要もない。何時でも日本へ歸つてして以前よりはもっと華やかに私の好む如何なる事業をも爲す事が出來る。然し私にはまだ一つの疑問がある。私は今後再び浮世の快樂を回想するやうな事はあるまいか。私は故國に歸つて幸福に彼の氷のやうに冷い我妻と生活する事が出來るだらうか。無論人は多少の差こそあれ、何れも克己こくきの力を持つて居ますから、私だとて決して自分を制して行かれぬ事は無い。が、然し私は其では滿足が出來ないのです。朝に聖書を展げた手で、夕ひそかに酒杯を擧げたい位なら、(例へ禁欲し得られるにもせよ)寧ろ進んで酒杯さかづきのみを手にするが好い。制欲と云ふことは意志の稍强いことを示すより外には全く無意義のものです。牢獄の中の囚人は一番の聖人です。彼等は牢獄の中に居る間は何一つ惡い事はしません。

私は自ら好んで此のイリノイス州の淋しい片田舎にもう三年近くを送つたのですが、私はまだ自分から安心する事は出來ません。私はもう一度都會の生活、都會の街に輝く燈火を見るつもりです。そして私は此後の生活について最後の決斷を與へるつもりです。

私は明日貴兄あなたとお別れします。私は如何に決斷するかをお知らせする爲めに、遠からず二つの中何れか一枚の寫眞をお送りしませう。若し私にして、幸ひにも自分の豫想して居る如く、心の底から快樂の念を去ることが出來て居たならば、貴兄は私が看護婦と結婚した時の寫眞をお受取りなさるでせうし、若し然うでなくば、私は………然うですね、佛蘭西あたりの妖艶な舞姬の寫眞をお送りしませう。それに因つて私の此の後の生活の如何なるかを御推察なすつて下さい。

(明治卅七年十二月)