夜の女

ブロードウヱーの四十二丁目と云へば、高く塔の如くに聳ゆるタイムス新聞社の建物を中心にして、大小の劇場、ホテル、料理屋、倶樂部から、酒場サルーン、玉場、カフエーなんぞ、夜を徹して人の遊び步く處である。されば又人並の遊びには猶物足らぬ人間の更に耽つて遊びに行く處も尠くは無い。

ニユーヨーク座と云つて何時も木戶口に肉襦袢などきた艶しい舞娘をどりツこの看板を幾枚も出し、相當の劇場が休業する炎暑の時節にも大入で打通す例になつて居る小芝居の角を曲ると俄に寂とした橫町に出る。

卽ちブロードウヱーから高架鐵道の走つて居る第六大通シキスアベニユーへと拔ける裏町で、直ぐ目に付く建物は角のニユーヨーク座と裏合うらあはせに立つて居るハドソン座の樂屋口。其の筋向には見付の惡からぬライシユーム座の表口から少し離れては、夜深に女役者や舞娘がお客を連れ込む小綺麗なホテルが二三軒、硝子張の屋根がある其の門口には大きな鉢物の植木が置いてある。其の他上町で見るやうな近代風の高いアツパートメント、ハウスの三四軒立つて居る外は、兩側とも皆六七十年前の形式かたちの五階造の貸長屋ばかりで、其の窓々には殆ど門並に Ladies' Tailor (女物仕立所)又は印度渡來の Palmist (手相判斷)、音樂指南なぞ種々の小札が、下宿人を捜す明室あきまの廣吿と共に相交り、時には支那料理の赤い提灯も見える。

此の橫町、日中は殆ど人通りが絕えて居るが、夕暮頃からは長いレースの裾から踵の高い靴を見せ、陸に上つた水禽みづとり見たやうにしなしな腰を振つて步く女の往來漸く繁く、夜半過になると端から端まで相乗の小馬車で一杯になつて了ふ。

立ち續く此の貸長屋の中には面白い處があるんだと、倶樂部あたりの若いものは皆知つて居る。然し紐育の市中は警察が喧しいとの事で、戶口には人目を惹くやうなものは一ツも出して無い。唯何番地と戶口に掲げてある番號で云ひ傳へ聞き傳へて知るものは知つて居り、知らざるものと見れば大通りに居る辻馬車の馭者が、過分の祝儀を目的に無理にも案内してくれる。

表付は古い貸長屋の事で見る影もないが、這入ると下座敷は天鵞絨の帷幕カーテンで境した三間打通しの廣い客間で、敷物も壁も黑みがゝつた海老色えびいろを用ひ、天井は稍薄色にして金色の唐草を描き、椅子も長椅子も同じ重い海老色の天鵞絨張、其處へ天井から大な金色の花電燈が下げてあるので、一見何となく嚴めしく、何やら田舎芝居で見る公爵ヂユーク某が宮庭パレースの場とも云ひた氣な樣子である。

表の客間の壁一面には幾多の女が裸體にされた儘抱合ひ今にも猛獸のゑばになるのを待つて居る羅馬ローマ時代基督敎徒迫害の大畫が掛けてあり、次の間には裸體のニンフが四五人白鳥と戲れながら木蔭の流れに浴みして居る、此れも非常な大作で、人物は實物程の大さもあらう。室の隅々には眞物ほんものらしく植木鉢に植ゑ付けた造り物の椰子の葉が靑々として居る。

此の家の内儀マダム、名をミツセス、スタントンと云ふ。何處の生れやら誰も知るものはない。何でも極く若い時分から女郞屋に下女奉公をして居る中、知らず〳〵此の道の呼吸を覺え、ハウスキーパーと云つて家内中の賄方となり、市俄古、費府フイラデルフイヤ、ボストンと女郞屋から女郞屋を稼ぎ步き、小金を蓄めた曉、紐育に出て來て獨力で現在の店を開き、今日でもう三十餘年商賣をして居るのださうだ。

ぶく〳〵肥つて腰の周圍なぞはホテルの廣間に立つ大理石の柱ほども有らうかと思はれる。口の大い、目の小い、四角な顏で、髮の毛は眞白だが、何時も白粉をつけ、一の字形の眉毛にまゆずみを引いて居る事さへある。

若い時から男は好きだが、其の爲めに金なぞ使つた事はない。道樂は寶石を買集める事が第一だと自ら吹聽して居る。成程五本の指殘らず指環を穿め、人と話をする時にはキチンと膝の上に其の手を置き、絕えず手巾で寶石をこする癖がある。指環の外に内儀が生命同樣の寶物として居るのは金剛石ダイヤモンドの耳飾で、其の價一對で二千弗したとか、然し日常耳朶に下げて居ると、餘りに人目を引き、何時ぞや舞蹈の歸り途三度も追剝に後を尾けられたのに、すつかり膽を冷し、其の後は二重の錠を下してトランクの底に藏つてある――この有名な物語は家中の女ども知らぬものは一人もない。

往來に面した二階の一室が、内儀の居間と寢部屋を兼ねた處で、天井から日本製の日傘と赤い鬼灯ほゝづき提燈ぢやうちんとを下げ、戶口に近く矢張日本製と覺しい黑地に金鷄鳥を繡取つた二枚折の屛風が置いてあるので、それ等の花々しい東洋風の色彩が古びた蠟石の煖爐と大な黃銅ブラス製の寢臺とに對して、一種驚くべき不調和を示して居る。

室の中央には何時も「ジヤアナル」に「紐育プレツス」と云ふ繪入の新聞を載せた小さいテーブル、其の上に立派な鸚鵡の籠が置いてある。中なる鸚鵡はこの家に住む事旣に十年、此の社會でのみ使用される下賤な言語をすつかり聞き覺え、朝から晚まで棲木とまりぎつゝいては黃色い聲で叫びつゞけて居ると、其の傍の安樂椅子の上にはトムと呼ぶ鼠ほどの小さな飼犬が耳を動し、人の來て抱いてくれるのを待つて居る。

内儀は午後の一時過に漸く目を覺ますと、第一に此のトムを抱き上げて接吻し、鸚鵡の鳴き立てるのを叱りながら、黑奴ニグロの下女が持運ぶ朝餐あさめしを濟して、新聞を讀み、窓際に置いた植木の世話に半日を送つて、夕暮の六時になるのを待つて居る。此れからが漸く此の家の夜明けである。下女が合圖の銅鑼鐘を叩くや否や、内儀はしづしづトムを抱いて、地下室ベーズメントの食堂に下り、仔細らしく主人席に坐ると、其れからどや〳〵と二階、三階、四階の部屋々々に寢て居た女供が、靴足袋一つの裸體身の上に緩かなガウンを引纏はせ、何れも何時頃だらうと云ひさうな怪訝な眼をしながら下りて來ておの〳〵席につく。其の同勢五人。

内儀の右側に坐る第一がイリスと云ひ第二がブランチ、第三番目がルイズ左側にはヘーゼルとジヨゼフイン。

此の五人各それ相當の經歷と性格とを持つて居るのである。

第一のイリスと云ふのはアイルランド人の血統で南部ケンタツキー州の生れとやら。年は二十三四。圓顏で、この人種特徵の頤は短く、瞳子の碧い目は小く、髮は光澤のある金色である。撫肩の何處か弱々しい姿をして居るが、腰から足の形の美しい事は自分ながらも大の自慢で、其の證據には二度程美術家のモデルになつた事があると云つて居る。家は地方で相當の財產家ものもち、十六七まではカソリツク敎の學校に居たとやら云ふ事で、折々飛んでも無い時に何を思出してか、口の中で讃美歌を歌つて居る事がある。一體に浮かぬ性質たちと見えて男を相手に酒を呑んでも別に騷ぎはせず、さうかと云つて病氣や何かの時でも大してふさいだ顏もした事がない。

これに反して隣に坐つて居るブランチと云ふのは親も兄弟もなく、紐育の往來端で犬と一緖に育つた生付いてのお轉婆者。もう三十になると云ふが極めて小柄な處から、其の瘦せた血色の惡い顏に厚化粧をして、入毛澤山の前髮に赤いリボンでも付けると、夜目には十六七の娘に化けてまんまと男を欺す。大の酒喰ひで而も手癖が惡く、お客の枕金をくすねて「島」の監獄へ送られた事もあつたとやら。寄席へ出る藝人と辻馬車の馭者をして居る黑奴二人までを色男にして居ると云ふので、仲間のものからは白人種の感情から一層嫌惡されて居る。

さて三番目のルイズと云ふのは頭髮も眼も黑い小肥こぶとり巴里パリーで、年はかなりに成ると云ふが、本場の化粧法が上手な所爲せゐか何時も若く見える。二年前、亞米利加は弗の國と聞いて情夫をとこと一緖に出稼ぎに來たので、金になると云へば、何樣事でも平氣で男の玩弄物おもちやになる。其代り自分の懷では酒一本買つた事がないとて、此れも仲間から可くは云はれて居らぬ。

左側のヘイゼル。此れは英領カナダ生れの頑丈な大女で、鞠を入れた樣な其の胸から、逞しい二の腕や肩の樣子如何にも油ぎつて、傍近く寄ると肌の臭と身中の熱氣を感ずるかと思はれる。身體の割合に恐しく小い圓顏の口に締りもなく眼も銳からず、昔は牧場で牛の乳でも搾つて居た田舎者とも思はれて一同好人物おひとよしだと馬鹿にして居るが、いざウイスキーに醉ふとなると、其の逞しい腕に恐れて、一同冷嘲半分に機嫌を取るのが例である。

最後のジヨゼフイン。これは姿も容色きりやうも家中での秀逸であらう。年もまだ二十を越したばかり。兩親は伊太利亞の獅子里島から移住して今でも東側の伊太利街で露店の八百屋をして居るとか。南歐美人の面影を偲ばせる下豐しもぶくれの頰は桃色して、眼は黑い寶石のやうな潤んだ光澤を持ち、眉毛は長く描いたやう。十四五の時からイーストサイドの寄席や麥酒ビーヤガーデンなぞに出て流行歌を歌つて評判を取り、其の後は一時コーラスガールになつてブロードウヱーの芝居に出た事もあつたが、つい身を持崩して病氣にかゝり、大事の咽喉を潰して了つた。尤も病院を出た後は元の聲には成り得たが、もう怠惰癖がついて、漸次色の巷に身を下して了つたのだ。けれどもまだ浮世の底を見透す樣な苦勞と云ふ苦勞も知らず、同時に死んで見たいと思ふ程な情夫まぶの味も覺えた事なく、唯だ〳〵綺麗な衣服を着て、若い男と巫山戲て居たい眞盛り、惡い事と云へば何でも面白い年頃なので、浮いた今の身は理想の境遇。寢て居る時と、物喰うて居る時の外は、夜晝の別なく、一時本職にした流行歌を歌ひつゞけ、さらずば可笑しくもない事をキヤツ〳〵と云つて笑ひ、家中狹しと步廻つて居る。

この五人、每日いづれか一度、物爭ひをせぬ事はない。が、暴風の過ぎるやうに、一時間も經つと何も彼も忘れて了つて又友逹になり、一緖に口を合して更に又他のものゝ陰口に日を送つて居る。

晚食はいつも極つたロースビーフか然らずばロースポークと馬鈴薯。クラムベリー、ソースにセレリー。其れが濟んでデザートに一片のパイかプツデングに紅茶の一杯。めい〳〵は部屋に戾つて長々とお化粧に取り掛つて夜の十時、内儀が家中の呼鈴を鳴らすと此れを合圖に一同は下の客間に下りて、來るべき客を待つ。流石商業國の女だけあつて此れから一夜を皆々營業時間ビジネスアワーと云つて居る。

で、この刻限になると、家中五人の外に内儀と特約して每夜外から出張して來る女も四五人はあつて、つまり十人以上の人數が或者は白いウヱーストに襟飾した素人風、或者は夥しいレースの飾をつけた夜會服の裾長く、貴族の舞蹈會もよろしくと云ふ樣で、手に扇さへ持ち、各客間の彼方此方に陣取るのである。

十一時が過ぎて、近所の劇場しばゐ閉場はねどき、往來は一しきり、人の跫音、車の響、馭者の呼聲喧しく、やがて十二時が鳴つてしんとすると、これから一時二時頃までが、料理屋、倶樂部、玉突場歸りの連中の繰込む時分。今方何處かの商店員らしい三人連の若者をば、手癖の惡いブランチと佛蘭西生れのルイズと、夜だけ外から稼ぎに來るフロラと云つて、電車の車掌の女房で、もう二人の子持、亭主と相談づくで金儲をして居る其の女とが各二階三階の部屋へ連込んだが、すると其の後直樣戶口の鈴が再びチリン〳〵と鳴つた。

マリーと呼ぶ黑奴の下女が戶を開ける。半白の番頭らしい肥つた男と後には地方の商人らしい三人。金になる客と見て内儀自ら出迎へ表の客間へ通した。

番頭らしい男はいゝ年をして此れも友逹の義理だと云はぬばかり、いやに沈着きながら椅子に坐る前、一座の女供を見渡したが、早くも藝人上りの若いジヨゼフインの姿を見るや、こいつ堀出物と忽ち耻を忘れ、自ら進寄つて同じ長椅子に坐り、「どうだ、一ツ三鞭酒と行かうか。」と膝の上に女の手を引寄せる。

他の地方出の三人は客間へ這入るが否や、正面に掛けた基督敎徒迫害の大裸體畫―――意外な處に意外な宗敎畫を見出して膽を潰したらしく、一同並んで椅子に付きながら、美術館でも見物する樣子で少時は畫面を見詰めたまゝ默つて居る。その席に居た女は勿論、次の客間からも二人三人境の帷幕カーテンを片寄せて進み出で、各三人を取卷いて其の邊の椅子に着くと、黑奴がシヤンパンの大罎二本とコツプを持出して注ぎ廻る。

「さあ緣起に一杯………。」と白髮の番頭が第一に杯を上げ、一口飮んだコツプを其の儘ジヨゼフインの唇に押付けてグツと飮干させた。

内儀はコツプを手にした儘佇立み三人の方を見て「何れかお氣に召しましたら。」と客の氣合を伺つたが三人とも少してれ﹅﹅氣味で唯ニヤニヤ笑つて居る………折から客間の外の廊下で「左樣なら、お近い中に。」と云ふ聲、接吻の響も聞えて二階のお客を送出した女。ブランチは鼻歌を歌ひ腰を振りルイズは後毛を氣にして撫でながら、フロラは態とらしく俯向いて客間へ這入つて來た。

二人は其の儘離れた片隅の椅子に着いたが、ブランチはお客と見るや、他の朋輩には遠慮もなく、猶も鼻歌を歌ひながら一人の客の傍に進み寄り、突然だしぬけに其の膝の上に腰をかけ、

「御免なさい。」と目に情を含ませ指先に挿んだ卷煙草を一服して靜に男の顏に吹き付ける。

此の樣子に男は今がた一杯シヤンパンを引掛けた後の漸く元氣づいた處なので、片手に女の啣へた卷煙草を取つて一服し、同時に片手では其の膝から滑り落ちぬやうにと女の腰をば引抱へた。

此れを見て他の一人も今は躊躇せず、一番柔順しい女と見立てゝ金髮のイリスの方へ、まだ醉ひもせぬのに肩を寄せ掛ける。殘りの一人は誰れ彼れの選好みはせぬ貪欲ものと見え、右から左り左りから右と、一座の女の顏は見ずに、衣服の上からも推測される胸の形や夜會服の白い肩のあたりのみを打目戍つて、獨り賤しい空想に耽ける樣子。

此に於て一座の形勢已に定つたと見て、第一に席を去つたのは加奈陀生れの大女ヘーゼル、其の他のもの此れにつゞいて一人二人と幕越しなる次の客間へと引き退つたが、椅子に坐るとヘーゼルはさも憎く〳〵しく舌打して、「呆れて了ふぢや無いか、あの手長のブランチたら………後から遣つて來やがつて馴染でもないお客の膝に馬乗になつてデレ付くなんて、私ア眞個ほんとうに呆れ返つ了つたよ。」と云へば、其の傍に居た女が、

「何しろ、黑人ニツガー情夫いろにして居る恥知らずだもの………。」と相槌を打つ。

此樣な風で每夜お客の取り遣りから起る悶着が其の翌日迄も引續いて陰口の種となり、遂に噂された當人が聞込んで默つて居られず、口喧嘩に花を咲すが例である。

然し今の處は幸にも隣の噂は醉つた男の太い笑聲に打消されて聞えぬ最中。ブランチは男の膝の上に馬乗りになり絹の靴足袋をした兩足をブラ〳〵させ、兩手に男の肩を捕へてボート漕ぐ樣に前身を動し、

「もう二階に行きませう。」と短兵急に早く埒を明けて了はうと迫つた。

「時は金」の格言を身の守護まもりとする金の都の女供、短い時間に多くを得やうとすればべん〳〵と一人の男の心任せに大事の時間を潰すは大の禁物である。處が又内儀に取つては酒代は全部其の所得になるので、呑む客と見れば一分なりと客間に引止めて酒を賣らねば成らぬ。此に於て往々内儀と女供の間には利益の衝突を免れず………昨夜もわたいの腕でシヤンパン五本も拔いて遣つた癖に唯た一週間宿賃が待てないんだとさ………抔云ふ不平は常に絕る時がない。

内儀は今二度目のシヤンパンを注いで廻つた後、座をつなぐ爲めにと自ら洋琴を彈き初め、

「ジヨゼフイン。一ツ何かお歌ひな。」と先刻から長椅子の上で半白の番頭を相手にして居た伊太利種のジヨゼフインを顧ると、舞娘をどりツこ上りのジヨゼフインは年も若く慾も少く、相手構ず騷ぐ性質たちとて自分から手を叩き、

 I like your way and the things you say,

 I like the dimples you show when you smile,

 I like your manner and I like your style,

 ............I like your way!

と聲一杯に歌ふと其れにつゞいて番頭も調子を合した。

ブランチは此の樣に稍焦れ込み、「私、もう醉つて苦しいわ。」と三十以上の婆の癖に鼻聲を作り、男の胸の上にピツタリ顏を押當てて大く息を付けば、金髮のイリスも此れにならひ、

「二階へ行つてゆつくり話しませう、ね、ね。」と男の指を握つて引張る。

番頭この樣を見て、「いや其方の方ぢや、もう眞猫しんねこをきめて居るんだな、内儀さん、其れぢや最う一本でお開きとするか。」

内儀得たりと洋琴から飛離れ、「マリー、早く。シヤンパンの御用だよ。」

流石のブランチも今は絕望して運を天に任すと云ふ風で、「大變な御元氣ですね。」と力なく云へば番頭一人で悅に入り葉卷の烟を濃く吹いて、

「酒に女にお金がありやア何時でも此の通り………ジヨゼフイン、最う一遍先刻の歌を聞して吳んな。」

 I like your eyes, you are just my size,

 I'd like you to like me as much as you like,

 I like your way!

折柄又もや戶口のベルが鳴る。丁度最後のシヤンパンを持ち出したマリー、慌忙あわてゝ御免下さいとお酌を内儀に任して廊下へ飛出した。

どや〳〵お客が次の客間へと這入る氣勢。つゞいて其の場に居た大女のヘイゼル、佛蘭西から來たルイズが可笑しな發音の英語………やがて皺枯れた男の聲で、「シヤンパンなんぞ拔く金は無えや。」と怒鳴るのが聞えた。

入れ替り立ち替り人の出入絕間なく、夜も旣に三時過ぎになつて一しきり客足が止つた。

女供一同流石每夜を明し馴れた眼も稍疲れ、知らず〳〵醉ふシヤンパンや麥酒やハイボールの混飮ごたのみに頭も重くなつて、元氣のジヨゼフインも今は流行歌唄ふ勇氣もなく、ピアノに片肱ついて生欠伸をし、ブランチは隅の方で下つて來る靴足袋を折々引上る振をしては其の中に揉込んだ紙幣さつの胸算用をして居るらしい。

イリス、ヘーゼル、ルイズ、フロラ、皆々長椅子へ並んで坐り繡眼鳥めじろが押合ふ樣に、互に肩と肩とを凭合せ、最う話の種噂の種も盡き果てた模樣。今は絕間なく喫す煙草にも飽きたらしく折々互に顏を見合せる。其の中には、「あゝ、お腹が空いた。」と云ふものもあるが、然し「それぢや何か買はうか。」と進んで發議するものは一人もない。

突然、呼鈴が家中の疲れを呼覺した。

元氣を付ける爲めか、マリーを待たずして、内儀自ら戶口に出ると高帽シルクハツトに毛裏付の外套白手袋に洋杖ケーンを持つた二人連、何處から見ても間違の無い交際場裡の紳士と云ふ扮裝いでたちに内儀は恭々しく先次の客間に案内し、「皆さんお客樣ですよ。」と呼ぶ。

大女のヘイゼル最初に立上り次の間に進入る前に女供の癖として物になりさうな客か否かと境の幕から盗見したが忽ち怪訝な顏をして後を振り返り、「シツ」と一同を制した。

「一件かい。」と一同は直に了解した樣子で顏を見合せる中進出でたのはブランチ、同じく幕の間から見透して、

「うむ、さうだよ。」と最う拔足して一同の傍に立戾り、「探偵だよ。夜會服ドレツスなんぞ着やがつて………内儀さんは氣が付かないのかね。私やアちやんと顏に見覺えがある。」

此の一言に流石は泥水を吸ふ女供、紐育の警察が月に一度は必ず酒類の脫稅販賣と夜業の現行犯を取押へる爲めに客に仕立てゝ探偵を入込す、このお灸には何れも一度や二度の經驗のないものはないので皆騷がず慌忙ず拔足差足、廊下ホールから地下室ベーズメントの食堂に逃れ出で或者は裏庭から隣の庭へと忍入り、或者はいざと云へば往來へ逃る用意で、地下室の戶口に佇立んだ。

内儀は二度まで一同を呼んだが誰も出て來ぬので此の社會は萬事悟が早く、さうかと腹で頷付きシヤンパンをと男が命ずるのを利用して、自ら大罎を取つて波々と注いだ後、「旦那、いけませんよ。御冗談なすつちや………。」と云ひながら靴足袋の間から二十弗紙幣二枚ばかりも掴出して、其の儘男のポケツトに揉込み、「罪ですよ。」と笑ふ。

此に於て探偵二人我意を得たと云ふ樣子で、「はゝゝゝは。此れも勤めぢや、其れぢや又近い中に………。」と立上つた。

「どうぞ、よろしく。」

妙な挨拶。内儀は漸く送出して戶をばつたり。其の儘客間の長椅子に酒樽を轉した樣にどしりと重い身體を落し、「あゝ、畜生奴ツ。」と大聲に怒鳴つた。

其れなり暫くの間家中は寂となつて物音を絕したが、軈てチリンチリンと頸に付けた鈴を鳴しながら飼犬のトム、幕の間から顏を出し心配さうに内儀の顏を打目戍る。續いて食堂から上つて來たブランチ、同じく客間を一寸差覗き、「内儀さん………。」と一聲。

然し内儀は最う落膽して返事をする勇氣もないらしい。

「内儀さん、それでも今夜はよく柔順しく歸つたねえ。」

「さうともね、」と内儀は稍腹立しく、「二十弗紙幣三四枚も掴ましたんだもの………。」

「二十弗三四枚………。」と敏捷いブランチ、必ず掛價を云つて居ると見て、態とらしく、「お氣の毒でしたね。」

この時どや〳〵と裏庭へ逃出した連中が、「おゝ寒い、凍死こゞえしん了はア………。」と云罵りながらもう怖物なしと見て、客間へ駈入る。ブランチは意地惡く又も話を大袈裟に、

「内儀さんは二十弗紙幣七八枚も掴したんだとさ。」

「まア………。」と皆々内儀の顏を見た。

内儀は女供が同情と驚嘆の聲に一層いま〳〵しくなつたと見え、忽然椅子に凭れた半身をキツと起し、一同を見渡して、

「何も其樣に驚く事はないよ、五十年此方叩上て來た腕だアね。鳥渡一目見れア、此奴は五弗で默つて歸るか、十弗で目を潰るか………其の邊の見つもりはまだ〳〵お前さん逹は修行が肝腎さ。何しろ五十年と云ふ月日だよ。大統領ルーズベルトもマツキンレーもまだ鼻ツ垂しの時分からだ。」

「五十年………。」と誰かゞ繰返すと、他の一人が、

「其の時分にはカーネギーも一文なしの土方でせうね。」と訊く。

「さうだらうよ。私も其の時分には指環一ツ無しで暮したもんだ。」

一同返す語なく口を噤む。内儀は意氣昂然と身を反し、「全くの話さ。五十年前は指環一ツなし………。」と自ら過去の經歷を回想し、人生に打勝つた目下の成功に云ひ知れぬ得意を感じたらしく、しづ〳〵椅子から立上り女供を尻目に睨んで二階に上つて行つた。

で、その裾の音が聞えなくなるかならぬ中に、最う堪へ兼て、長椅子の上に轉つて笑ひ出したのは無邪氣のジヨゼフイン。

「大統領ルーズベルトも未だ鼻垂しの時分から………。」とブランチが口眞似をすると、ヘイゼルが、

「五十年前は指環一ツなし………。」

「ほゝゝほゝゝゝほ。」と一同は吹出して笑つた。

何處かの室で時計が鳴つた。車掌の女房フロラは聞澄して、「もう四時だ、今夜は緣起でもない。私やそろ〳〵歸らうよ。」と此れも外から稼ぎに來るジユリヤと云ふのを顧みた。

「さうだね。ぢやア行かう。」

二人は三階へ上り夜の裝束を脫捨てゝ外出そとでの小ざつぱりした風に着換へ、帽子を冠りベールから襟卷の仕度を濟して内儀が室の戶を鳥渡叩き、

「四時過ましたから歸りますよ、又明晚、さよなら。」

ばた〳〵駈下りて廊下の外から一同に、さよ――なら、と長く聲を曳いて往來へ出ると、出合頭に佛蘭西から一緖に手を引合つて稼ぎに來たルイズの情夫、自動車の運轉手をして居る奴が、

「今晚は。」と歐洲風の妙な手振で鳥打帽を取り、「ルイズは………。」と訊く。

「客間に居るよ。お樂みだね。」

夜明の五時近くからが情夫どもの繰込む時刻である。色男は其の儘石段を上つて戶口のベルを押した。

「おゝ寒い。」と態とらしく身を顫してフロラとジユリヤは六番通の方へと行き掛ける。もう十二月の半とて市中を馳る電車の響は岸打つ波の如くに消えつ起りつ絕間なく聞えながら、何處やら深い寂しさの身に浸みわたり、角の芝居小屋の間からひろ〴〵と見えるブロードウヱーの大通は初夜よひの儘に明く照されながら、其の街燈の光は月よりも蒼く水よりも冷く見え、流石の大都も今が寂しい眞盛りである。

二人は云合した樣に身を摺寄せ、四五間も行掛けると例のコーラスガール抔が泊込むホテルの前、二三輛客待をして居る辻馬車の影から、

「今夜は大分早いぢや無えか。」と大きなパイプを啣へた一人の男が立現れた。ジユリヤは四邊の火影に見透して、

「おや、掛け違つて、久振だねえ。」

電車の車掌をして居るフロラの亭主である。每夜四時の交代に近所の停留場から制帽制服の儘何時でも此の邊で女房の歸りを待受けて居るのだ。フロラは輕く接吻して、「探偵いぬが這入つたんで緣起でもないから、四時きつかりに切上て了つたんだよ。」

「さうか。でも可成出來た方か。」と恥を知らぬ亭主。女房も平然としたもので、

「さうだね。大した事もなかつたが、それでも皆なそれ〴〵忙しかつたよ、ねえ。」とジユリヤの方を見返ると、

「うむ。」と頷付き、「一番上手なのは矢張ブランチだね、私にや、然しあゝは行かないよ。」

「フロラ、お前も少し見習ふが可いぢやないか。」

「何だつて。よけいなお世話だ。」

「深切に云つて遣るんぢやねえか。」

「いゝよ。」とフロラは手にした暖手套マツフで亭主の顏を打つ。

「はゝゝゝは。怒るない。」

六番通へ出て表戶の火は消して居るが内は夜通明いて居る酒場の前まで來た。ジユリヤの亭主は此の酒場の給仕人である。車掌夫婦は、「それぢや、あばよ。」と行掛けるのをジユリヤは呼止めて、「其樣にいそがないだつて可いぢやないか、たまにはわたいの可愛い人の顏も見て遣るもんだよ。」

「ちげエねえ。」

ジユリヤが先に立つて車掌夫婦共々 Familiy Entrance と書いた目立たぬ裏手の戶を押して内へ這入つた。

冬の夜の明けるには猶間があらう。人通りの絕えた六番通の彼方から醉つて居るのか、或は寒氣をまぎらす爲めか、中音に歌つて來る男の聲………

 ......I wish that I were with you, dear, to-night;

 For I'm lonesome and unhappy here without you,

 you can tell, dear, by the letter that I write.

突然、遠くから街を震動しつゝ襲來る高架鐵道の響。犬が何處かで吠出した。

(明治四十年四月)