夜の女
一
ブロードウヱーの四十二丁目と云へば、高く塔の如くに聳ゆるタイムス新聞社の建物を中心にして、大小の劇場、ホテル、料理屋、倶樂部から、
ニユーヨーク座と云つて何時も木戶口に肉襦袢などきた艶しい
卽ちブロードウヱーから高架鐵道の走つて居る
此の橫町、日中は殆ど人通りが絕えて居るが、夕暮頃からは長いレースの裾から踵の高い靴を見せ、陸に上つた
立ち續く此の貸長屋の中には面白い處があるんだと、倶樂部あたりの若いものは皆知つて居る。然し紐育の市中は警察が喧しいとの事で、戶口には人目を惹くやうなものは一ツも出して無い。唯何番地と戶口に掲げてある番號で云ひ傳へ聞き傳へて知るものは知つて居り、知らざるものと見れば大通りに居る辻馬車の馭者が、過分の祝儀を目的に無理にも案内してくれる。
表付は古い貸長屋の事で見る影もないが、這入ると下座敷は天鵞絨の
表の客間の壁一面には幾多の女が裸體にされた儘抱合ひ今にも猛獸の
此の家の
ぶく〳〵肥つて腰の周圍なぞはホテルの廣間に立つ大理石の柱ほども有らうかと思はれる。口の大い、目の小い、四角な顏で、髮の毛は眞白だが、何時も白粉をつけ、一の字形の眉毛に
若い時から男は好きだが、其の爲めに金なぞ使つた事はない。道樂は寶石を買集める事が第一だと自ら吹聽して居る。成程五本の指殘らず指環を穿め、人と話をする時にはキチンと膝の上に其の手を置き、絕えず手巾で寶石を
往來に面した二階の一室が、内儀の居間と寢部屋を兼ねた處で、天井から日本製の日傘と赤い
室の中央には何時も「ジヤアナル」に「紐育プレツス」と云ふ繪入の新聞を載せた小さいテーブル、其の上に立派な鸚鵡の籠が置いてある。中なる鸚鵡はこの家に住む事旣に十年、此の社會でのみ使用される下賤な言語をすつかり聞き覺え、朝から晚まで
内儀は午後の一時過に漸く目を覺ますと、第一に此のトムを抱き上げて接吻し、鸚鵡の鳴き立てるのを叱りながら、
内儀の右側に坐る第一がイリスと云ひ第二がブランチ、第三番目がルイズ左側にはヘーゼルとジヨゼフイン。
此の五人各それ相當の經歷と性格とを持つて居るのである。
第一のイリスと云ふのはアイルランド人の血統で南部ケンタツキー州の生れとやら。年は二十三四。圓顏で、この人種特徵の頤は短く、瞳子の碧い目は小く、髮は光澤のある金色である。撫肩の何處か弱々しい姿をして居るが、腰から足の形の美しい事は自分ながらも大の自慢で、其の證據には二度程美術家のモデルになつた事があると云つて居る。家は地方で相當の
これに反して隣に坐つて居るブランチと云ふのは親も兄弟もなく、紐育の往來端で犬と一緖に育つた生付いてのお轉婆者。もう三十になると云ふが極めて小柄な處から、其の瘦せた血色の惡い顏に厚化粧をして、入毛澤山の前髮に赤いリボンでも付けると、夜目には十六七の娘に化けてまんまと男を欺す。大の酒喰ひで而も手癖が惡く、お客の枕金を
さて三番目のルイズと云ふのは頭髮も眼も黑い
左側のヘイゼル。此れは英領カナダ生れの頑丈な大女で、鞠を入れた樣な其の胸から、逞しい二の腕や肩の樣子如何にも油ぎつて、傍近く寄ると肌の臭と身中の熱氣を感ずるかと思はれる。身體の割合に恐しく小い圓顏の口に締りもなく眼も銳からず、昔は牧場で牛の乳でも搾つて居た田舎者とも思はれて一同
最後のジヨゼフイン。これは姿も
この五人、每日いづれか一度、物爭ひをせぬ事はない。が、暴風の過ぎるやうに、一時間も經つと何も彼も忘れて了つて又友逹になり、一緖に口を合して更に又他のものゝ陰口に日を送つて居る。
晚食はいつも極つたロースビーフか然らずばロースポークと馬鈴薯。クラムベリー、ソースにセレリー。其れが濟んでデザートに一片のパイかプツデングに紅茶の一杯。めい〳〵は部屋に戾つて長々とお化粧に取り掛つて夜の十時、内儀が家中の呼鈴を鳴らすと此れを合圖に一同は下の客間に下りて、來るべき客を待つ。流石商業國の女だけあつて此れから一夜を皆々
で、この刻限になると、家中五人の外に内儀と特約して每夜外から出張して來る女も四五人はあつて、つまり十人以上の人數が或者は白いウヱーストに襟飾した素人風、或者は夥しいレースの飾をつけた夜會服の裾長く、貴族の舞蹈會もよろしくと云ふ樣で、手に扇さへ持ち、各客間の彼方此方に陣取るのである。
二
十一時が過ぎて、近所の
マリーと呼ぶ黑奴の下女が戶を開ける。半白の番頭らしい肥つた男と後には地方の商人らしい三人。金になる客と見て内儀自ら出迎へ表の客間へ通した。
番頭らしい男はいゝ年をして此れも友逹の義理だと云はぬばかり、いやに沈着きながら椅子に坐る前、一座の女供を見渡したが、早くも藝人上りの若いジヨゼフインの姿を見るや、こいつ堀出物と忽ち耻を忘れ、自ら進寄つて同じ長椅子に坐り、「どうだ、一ツ三鞭酒と行かうか。」と膝の上に女の手を引寄せる。
他の地方出の三人は客間へ這入るが否や、正面に掛けた基督敎徒迫害の大裸體畫―――意外な處に意外な宗敎畫を見出して膽を潰したらしく、一同並んで椅子に付きながら、美術館でも見物する樣子で少時は畫面を見詰めたまゝ默つて居る。その席に居た女は勿論、次の客間からも二人三人境の
「さあ緣起に一杯………。」と白髮の番頭が第一に杯を上げ、一口飮んだコツプを其の儘ジヨゼフインの唇に押付けてグツと飮干させた。
内儀は
二人は其の儘離れた片隅の椅子に着いたが、ブランチはお客と見るや、他の朋輩には遠慮もなく、猶も鼻歌を歌ひながら一人の客の傍に進み寄り、
「御免なさい。」と目に情を含ませ指先に挿んだ卷煙草を一服して靜に男の顏に吹き付ける。
此の樣子に男は今がた一杯シヤンパンを引掛けた後の漸く元氣づいた處なので、片手に女の啣へた卷煙草を取つて一服し、同時に片手では其の膝から滑り落ちぬやうにと女の腰をば引抱へた。
此れを見て他の一人も今は躊躇せず、一番柔順しい女と見立てゝ金髮のイリスの方へ、まだ醉ひもせぬのに肩を寄せ掛ける。殘りの一人は誰れ彼れの選好みはせぬ貪欲ものと見え、右から左り左りから右と、一座の女の顏は見ずに、衣服の上からも推測される胸の形や夜會服の白い肩のあたりのみを打目戍つて、獨り賤しい空想に耽ける樣子。
此に於て一座の形勢已に定つたと見て、第一に席を去つたのは加奈陀生れの大女ヘーゼル、其の他のもの此れにつゞいて一人二人と幕越しなる次の客間へと引き退つたが、椅子に坐るとヘーゼルはさも憎く〳〵しく舌打して、「呆れて了ふぢや無いか、あの手長のブランチたら………後から遣つて來やがつて馴染でもないお客の膝に馬乗になつてデレ付くなんて、私ア
「何しろ、
此樣な風で每夜お客の取り遣りから起る悶着が其の翌日迄も引續いて陰口の種となり、遂に噂された當人が聞込んで默つて居られず、口喧嘩に花を咲すが例である。
然し今の處は幸にも隣の噂は醉つた男の太い笑聲に打消されて聞えぬ最中。ブランチは男の膝の上に馬乗りになり絹の靴足袋をした兩足をブラ〳〵させ、兩手に男の肩を捕へて
「もう二階に行きませう。」と短兵急に早く埒を明けて了はうと迫つた。
「時は金」の格言を身の
内儀は今二度目のシヤンパンを注いで廻つた後、座をつなぐ爲めにと自ら洋琴を彈き初め、
「ジヨゼフイン。一ツ何かお歌ひな。」と先刻から長椅子の上で半白の番頭を相手にして居た伊太利種のジヨゼフインを顧ると、
I like your way and the things you say,
I like the dimples you show when you smile,
I like your manner and I like your style,
............I like your way!
と聲一杯に歌ふと其れにつゞいて番頭も調子を合した。
ブランチは此の樣に稍焦れ込み、「私、もう醉つて苦しいわ。」と三十以上の婆の癖に鼻聲を作り、男の胸の上にピツタリ顏を押當てて大く息を付けば、金髮のイリスも此れに
「二階へ行つてゆつくり話しませう、ね、ね。」と男の指を握つて引張る。
番頭この樣を見て、「いや其方の方ぢや、もう
内儀得たりと洋琴から飛離れ、「マリー、早く。シヤンパンの御用だよ。」
流石のブランチも今は絕望して運を天に任すと云ふ風で、「大變な御元氣ですね。」と力なく云へば番頭一人で悅に入り葉卷の烟を濃く吹いて、
「酒に女にお金がありやア何時でも此の通り………ジヨゼフイン、最う一遍先刻の歌を聞して吳んな。」
I like your eyes, you are just my size,
I'd like you to like me as much as you like,
I like your way!
折柄又もや戶口のベルが鳴る。丁度最後のシヤンパンを持ち出したマリー、
どや〳〵お客が次の客間へと這入る氣勢。つゞいて其の場に居た大女のヘイゼル、佛蘭西から來たルイズが可笑しな發音の英語………やがて皺枯れた男の聲で、「シヤンパンなんぞ拔く金は無えや。」と怒鳴るのが聞えた。
三
入れ替り立ち替り人の出入絕間なく、夜も旣に三時過ぎになつて一しきり客足が止つた。
女供一同流石每夜を明し馴れた眼も稍疲れ、知らず〳〵醉ふシヤンパンや麥酒やハイボールの
イリス、ヘーゼル、ルイズ、フロラ、皆々長椅子へ並んで坐り
突然、呼鈴が家中の疲れを呼覺した。
元氣を付ける爲めか、マリーを待たずして、内儀自ら戶口に出ると
大女のヘイゼル最初に立上り次の間に進入る前に女供の癖として物になりさうな客か否かと境の幕から盗見したが忽ち怪訝な顏をして後を振り返り、「シツ」と一同を制した。
「一件かい。」と一同は直に了解した樣子で顏を見合せる中進出でたのはブランチ、同じく幕の間から見透して、
「うむ、さうだよ。」と最う拔足して一同の傍に立戾り、「探偵だよ。
此の一言に流石は泥水を吸ふ女供、紐育の警察が月に一度は必ず酒類の脫稅販賣と夜業の現行犯を取押へる爲めに客に仕立てゝ探偵を入込す、このお灸には何れも一度や二度の經驗のないものはないので皆騷がず慌忙ず拔足差足、
内儀は二度まで一同を呼んだが誰も出て來ぬので此の社會は萬事悟が早く、さうかと腹で頷付きシヤンパンをと男が命ずるのを利用して、自ら大罎を取つて波々と注いだ後、「旦那、いけませんよ。御冗談なすつちや………。」と云ひながら靴足袋の間から二十弗紙幣二枚ばかりも掴出して、其の儘男のポケツトに揉込み、「罪ですよ。」と笑ふ。
此に於て探偵二人我意を得たと云ふ樣子で、「はゝゝゝは。此れも勤めぢや、其れぢや又近い中に………。」と立上つた。
「どうぞ、よろしく。」
妙な挨拶。内儀は漸く送出して戶をばつたり。其の儘客間の長椅子に酒樽を轉した樣にどしりと重い身體を落し、「あゝ、畜生奴ツ。」と大聲に怒鳴つた。
其れなり暫くの間家中は寂となつて物音を絕したが、軈てチリンチリンと頸に付けた鈴を鳴しながら飼犬のトム、幕の間から顏を出し心配さうに内儀の顏を打目戍る。續いて食堂から上つて來たブランチ、同じく客間を一寸差覗き、「内儀さん………。」と一聲。
然し内儀は最う落膽して返事をする勇氣もないらしい。
「内儀さん、それでも今夜はよく柔順しく歸つたねえ。」
「さうともね、」と内儀は稍腹立しく、「二十弗紙幣三四枚も掴ましたんだもの………。」
「二十弗三四枚………。」と敏捷いブランチ、必ず掛價を云つて居ると見て、態とらしく、「お氣の毒でしたね。」
この時どや〳〵と裏庭へ逃出した連中が、「おゝ寒い、
「内儀さんは二十弗紙幣七八枚も掴したんだとさ。」
「まア………。」と皆々内儀の顏を見た。
内儀は女供が同情と驚嘆の聲に一層いま〳〵しくなつたと見え、忽然椅子に凭れた半身をキツと起し、一同を見渡して、
「何も其樣に驚く事はないよ、五十年此方叩上て來た腕だアね。鳥渡一目見れア、此奴は五弗で默つて歸るか、十弗で目を潰るか………其の邊の見つもりはまだ〳〵お前さん逹は修行が肝腎さ。何しろ五十年と云ふ月日だよ。大統領ルーズベルトもマツキンレーもまだ鼻ツ垂しの時分からだ。」
「五十年………。」と誰かゞ繰返すと、他の一人が、
「其の時分にはカーネギーも一文なしの土方でせうね。」と訊く。
「さうだらうよ。私も其の時分には指環一ツ無しで暮したもんだ。」
一同返す語なく口を噤む。内儀は意氣昂然と身を反し、「全くの話さ。五十年前は指環一ツなし………。」と自ら過去の經歷を回想し、人生に打勝つた目下の成功に云ひ知れぬ得意を感じたらしく、しづ〳〵椅子から立上り女供を尻目に睨んで二階に上つて行つた。
で、その裾の音が聞えなくなるかならぬ中に、最う堪へ兼て、長椅子の上に轉つて笑ひ出したのは無邪氣のジヨゼフイン。
「大統領ルーズベルトも未だ鼻垂しの時分から………。」とブランチが口眞似をすると、ヘイゼルが、
「五十年前は指環一ツなし………。」
「ほゝゝほゝゝゝほ。」と一同は吹出して笑つた。
何處かの室で時計が鳴つた。車掌の女房フロラは聞澄して、「もう四時だ、今夜は緣起でもない。私やそろ〳〵歸らうよ。」と此れも外から稼ぎに來るジユリヤと云ふのを顧みた。
「さうだね。ぢやア行かう。」
二人は三階へ上り夜の裝束を脫捨てゝ
「四時過ましたから歸りますよ、又明晚、さよなら。」
ばた〳〵駈下りて廊下の外から一同に、さよ――なら、と長く聲を曳いて往來へ出ると、出合頭に佛蘭西から一緖に手を引合つて稼ぎに來たルイズの情夫、自動車の運轉手をして居る奴が、
「今晚は。」と歐洲風の妙な手振で鳥打帽を取り、「ルイズは………。」と訊く。
「客間に居るよ。お樂みだね。」
夜明の五時近くからが情夫どもの繰込む時刻である。色男は其の儘石段を上つて戶口のベルを押した。
「おゝ寒い。」と態とらしく身を顫してフロラとジユリヤは六番通の方へと行き掛ける。もう十二月の半とて市中を馳る電車の響は岸打つ波の如くに消えつ起りつ絕間なく聞えながら、何處やら深い寂しさの身に浸みわたり、角の芝居小屋の間からひろ〴〵と見えるブロードウヱーの大通は
二人は云合した樣に身を摺寄せ、四五間も行掛けると例のコーラスガール抔が泊込むホテルの前、二三輛客待をして居る辻馬車の影から、
「今夜は大分早いぢや無えか。」と大きなパイプを啣へた一人の男が立現れた。ジユリヤは四邊の火影に見透して、
「おや、掛け違つて、久振だねえ。」
電車の車掌をして居るフロラの亭主である。每夜四時の交代に近所の停留場から制帽制服の儘何時でも此の邊で女房の歸りを待受けて居るのだ。フロラは輕く接吻して、「
「さうか。でも可成出來た方か。」と恥を知らぬ亭主。女房も平然としたもので、
「さうだね。大した事もなかつたが、それでも皆なそれ〴〵忙しかつたよ、ねえ。」とジユリヤの方を見返ると、
「うむ。」と頷付き、「一番上手なのは矢張ブランチだね、私にや、然しあゝは行かないよ。」
「フロラ、お前も少し見習ふが可いぢやないか。」
「何だつて。よけいなお世話だ。」
「深切に云つて遣るんぢやねえか。」
「いゝよ。」とフロラは手にした
「はゝゝゝは。怒るない。」
六番通へ出て表戶の火は消して居るが内は夜通明いて居る酒場の前まで來た。ジユリヤの亭主は此の酒場の給仕人である。車掌夫婦は、「それぢや、あばよ。」と行掛けるのをジユリヤは呼止めて、「其樣に
「ちげエねえ。」
ジユリヤが先に立つて車掌夫婦共々 Familiy Entrance と書いた目立たぬ裏手の戶を押して内へ這入つた。
冬の夜の明けるには猶間があらう。人通りの絕えた六番通の彼方から醉つて居るのか、或は寒氣をまぎらす爲めか、中音に歌つて來る男の聲………
......I wish that I were with you, dear, to-night;
For I'm lonesome and unhappy here without you,
you can tell, dear, by the letter that I write.
突然、遠くから街を震動しつゝ襲來る高架鐵道の響。犬が何處かで吠出した。
(明治四十年四月)